おくりびと

本木のしなやかな納棺師としての仕事ぶり
*キャスト&スタッフ

監督:滝田洋二郎
制作:信国一郎
原作:青木新門納棺夫日記
脚本:小山薫堂
音楽:久石譲
出演:本木雅弘小林大悟)、広末涼子小林美香)、山崎努(佐々木生栄)、余貴美子(上村百合子)
2008年日本映画。第81回アカデミー賞外国語映画賞受賞作品

*ストーリー**************
リストラされて故郷、山形に戻ったチェリストが「旅のお手伝い」の広告の元、旅行会社と勘違いして納棺師派遣の会社に就職してから本格的に納棺師として仕事をしていくさまを描いている。
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1999年5月号の雑誌ダ・ヴィンチの表紙を本木雅弘が飾っているが、この時彼の手にしている本が今回の原作となった青木新門の「納棺夫日記」、本木の構想から10年近くなってからの実現であり、ここからしても本木のこの作品に込めた想いが伝わってくる。東京のオーケストラが不振で解散と相成り、団員だった大悟(本木)は1.800万円もするチェロを購入したばかりでもあり、途方に暮れる。考えた末にそのチェロを手放し、母の死後誰も住んでいない山形の実家に戻る事にし、新天地での生活が始まる。「旅のお手伝い」という宣伝文句で旅行会社の求人と思って就職してみれば葬儀の納棺師派遣の会社!(旅立ちのお手伝い、の「立ち」が誤植で落ちていた、と山崎努があっさり言うあたりが面白い)
妻には「どんな会社だった?」と聞かれると「冠婚葬祭関係…」即座に「結婚式?」と妻の美香が納得するところが象徴的で、冠婚葬祭、と言っても結婚式をメインに捉えているところが一般の感覚として描かれる。こわごわ、いやいやついた納棺の仕事は大悟には新しい発見の日々となり、毎日死体に触れるという日常から逸脱した作業への拒絶感とは別に神秘的で愛情あふれるやりがい、という正反対の気持ちが大悟の心に無意識に芽生えていく。大悟の心の中でそれが無意識から意識的になるのは、美香が夫の職業を知るところとなり、ショックで東京に帰ってしまい、実は妊娠していた事がわかり戻ってきたあたり。決して望んで就いた仕事ではなかったのに妻から「納棺師の仕事、辞めて!生まれてきた子供にその仕事、自信持って言える?もっとまともな仕事を探せるでしょう?」と言われた時に、大悟の気持ちが揺れていない、それに自分が気づくあたりから彼の納棺師への熱意は意識的になって、さらに当初の否定的な気持ちや拒絶感よりもやりがいの方が強くなっているという事に自分で納得してくる。この流れが見事に描かれていて、本木演ずる大悟の変化がすがすがしく感ぜられる。人生の中で大切な事って何なのか、というのを切々と訴えてもいる。大悟は小さい時に父親の蒸発によって捨てられた、というトラウマを持つが、それとの対峙も織り込まれている。

ここで描かれている「仏さま」(死体)、それはたくさんのドラマの凝縮された人生の象徴である。故人の最後の旅立ちに納棺師が行う納棺の儀、そのうやうやしい、愛情と厳かさに満ちた時間に遺族たちは故人との色々な思い出に浸る事ができる、そしてその故人の美しさを最大に表現できるのがまた納棺師の仕事でもある。

チェリストというのは本来、指先が非常に敏感で発達している。そして納棺師というのも手先の細やかさ、優しさ、作業の端正な美しさが愛を感じさせる、というそこにチェロの奏でる愛との共通点があり、当初の「チェリストから納棺師???」という違和感から観ているものを非常に納得させてくれる。
本木の手つきのしなやかさは一種のアートだった。本木のチェロ演奏習得など、熱演も素晴らしいけれど、山崎努余貴美子の自然で緻密な演技が秀逸。そこに山形の自然が溶け込み、いやがおうにもヒューマンな香りが立ち込めてくる作品。広末涼子だけが抑揚のない声で子供っぽいのだけれど、あえてここではただ一人、現代っ子のあまり深く考えない世代の女の子、という意味では深刻な演技を望まないキャスティングの方が、一般の感覚と距離感が近づけるのかもしれない、とも思えた。
個人的には、友人がたくさんいて以前、共演もした事のある山形交響楽団の演奏は懐かしく嬉しくもあった。さらにピアニストのクレジットに友人の名前があり、活躍を誇りにも思っている。久石譲の音楽はテーマ音楽は背景と良く合っていた。が他の場面展開の音楽はいつもよりもシリアスに難しく書いたためか、表情の硬い音楽として聞こえた。今回のクラシックベース、という事にこだわったためか…いつも通りの方が久石節として楽しめたかな、という率直な感想を持った。

余談だがチェロの価格の1.800万円はプロとしたらそう珍しい話でなく、音楽仲間の一人は6.000万円のチェロを弾いていたりする…(当時都内オーケストラの首席奏者)ちなみに弓だけでも300万円、などという世界ではある。ご参考までに。


「おくりびと」公式サイト
MOTOKI MASAHIRO JELLY FISH CAFE公式サイト

原作 「納棺夫日記」青木新門

007慰めの報酬

新しい試みと伝統との狭間での007シリーズ
*キャスト&スタッフ

監督:マーク・フォースター
制作:マイケル・G・ウィルソン
脚本:ポール・ハギス
音楽:デヴィッド・アーノルド
出演:ダニエル・クレイグジェームス・ボンド)、オルガ・キュレリンコ(カミーユ)、ジュディ・デンチ(M)
2008年イギリス・アメリカ共同制作映画

*ストーリー**************
前作「007/カジノ・ロワイヤル」の続編として二作品で一つ、というコンセプトで作られた作品。前作で任務完了後にパートナーでもあった運命の女性ヴェスパーの裏切りが発覚し彼女が罪の意識から死を選び、愛し合っていたボンドは一人残されながらも任務続行。彼女を操っていたミスター・ホワイトの所在をつきとめ、身柄を確保する所から今作品はスタート。ミスター・ホワイトを追う内にボンドは彼らの大元の組織の企む「ティエラ計画」という巨大な陰謀を知ることとなる。「ティエラ計画」は天然資源の完全支配を目論んだ計画でその組織の幹部、ドミニク・グリーンを追うボンド。そのグリーンの取引相手に家族を殺され、復習に燃えるカミーユがボンドと行動を共にするが…
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6代目ジェームス・ボンドとして初めてブルー・アイズ(青い目)のダニエル・クレイグが大抜擢され、映画制作としては大成功を収めてから今作が二作目。監督はマーティン・キャンベルからマーク・フォースターに変わり、さらに今回は原作がない。脚本は「ミリオンダラー・ベイビー」などで有名なポール・ハギスが担当。
この原作がないことについては後で述べるとして、6代目ジェームス・ボンドダニエル・クレイグのデビュー作、「007カジノ・ロワイヤル」はエポックメイキングな作品であり、新生ボンドはかつてのボンドファンをずいぶん失い、そして新たなジェネレーションのファンをその何倍も獲得した。しかしながら新しい企画には常にこういう事は起こるわけで、時代の自然淘汰が行われる、という事とも言えよう。初代のショーン・コネリーの流れを踏襲していない容姿、つまり、ブロンドで青い目の俳優を起用するからには、相当色々な物を改革的に新しくしてしまわねばならないミッションがあったわけで、実際、今までのスマートでゴージャスなジェームス・ボンド、という設定を白紙に戻してヒューマンで荒削りなボンドとして登場させた。
原作は第一作目だったこともあり、ボンドデビューのストーリーだからその状況もうまく働いて、結果、このやり方が見事に時代の流れとマッチしたと言える。が、しかし往年のファンは映画の歴史を一緒に背負ってきただけにやりきれない気持ちもある。ボンドが大好きなファンにとっては主役や脚本が気にくわないからと言ってジェームス・ボンドシリーズを嫌いになるのも悲しく、自分のコレクションからそれだけを外す、というのもコレクター的に悔しいわけである。シリーズ物にはシリーズ物の掟、というのがあるわけで、それが他の作品でも良いような匂いになるとその作品の魅力は激減してしまうし、ひどい場合はその魅力が無くなってしまう…今回の作品はその瀬戸際にある、と解釈した。わかりやすく言えば、遠山の金さんでお白州の場面で上映45分で桜吹雪がでなかったらどうだろう…例が極端だけれど、そういう事が長寿作品、シリーズ作品には非常に大切な事なのだから。最初に述べた事に戻るけれど、今回は原作がない。脚本の力で仕上がってきている作品だから自由さもとてもある替わりに危険もある。ポール・ハギスの脚本には定評があるからそれは質がどうこうではないだろうが、さらに監督がヒューマン系のそれもアクション初めてのマーク・フォースターに変わっている。もちろん、アクション系監督を同時に従えての撮影だった。しかしこれらが今回の作品を曖昧なアクション物にしてしまった感がある。前作とつがいの、という設定のために冒頭での「ガンバレル・シークエンス※」がない!(もちろん本作最後にそれは登場してバランスが取れると制作側は言っているが)ダイ・ハードでも良かったんじゃない?とか、そんな意地悪な見方もできる。
となってくると007としてのシリーズとして作り上げていく意味があったのだろうか…という展開になるわけである。作品自体は非常に面白いと思うし、007だと思わなければエンターテイメントとしてもゴージャスだと思う。
第一作目はどんなに改革的に撮影しようと原作に忠実だったわけで、007シリーズの作者の意図する真髄がやはり息づいていた。それが新生ボンド、ダニエルが大成功した理由なのだろうが、今回はそういう色々な状況がすべて曖昧になってしまった作品と言えるかもしれない。
しかしながら制作側は、この人間的なジェームス・ボンドが、この二作を経てようやく007として成長してきたわけで、次回からはオープニングから象徴的な「ガンバレル・シークエンス」が見られるかもしれない、と言っている。「この2作のボンドは本当のボンドではないんだ…」とファンに訴えているようにも思える発言だが…

熱烈な007シリーズファンでなければ十分楽しめる作品。ダニエル・クレイグは前回よりも筋肉が少し落ちて不自然さが消えている。相変わらずよく走り、よく飛び、いろいろと魅せてくれるし、他の俳優陣の作品に掛ける意欲もとてもよく伝わってくる。実際撮影中にダニエルは骨折もしているくらい、生傷が絶えないほどで熱演している。昨年にダニエル・クレイグがこの二作でボンド役を降りたい、と漏らした事は記憶に新しく、その時私はとても嬉しく思った。ダニエルのようなシリアスな演技が魅力的な俳優が、こういったラッキーチャンスだけに惑わされることなく、自分の役幅を広げる気持ちに忠実である、という事を知って嬉しかったから。ただどちらにせよ今後、この007シリーズがどうなって行くのか、というのは非常に注目していたいのは確か。もちろん新生ボンドのままダニエルが続投を続けたとしても、そういう精神を持っているダニエルが演じるのなら、それは非常に楽しいと思う。
それと、この作品は前作「007カジノロワイヤル」を見てからでないとストーリーがわからなくなる事があるのでできれば事前に見ておく事をオススメする。

このように書いてきて、やはりもう一度観たくなるのはダニエルの魅力?それともあの007の音楽が誘うスクリーンの魅力?というそんな魅力を持った作品。


※「ガンバレル・シークエンス」とは、007シリーズの冒頭で登場する中のライフリングの輪の中にボンドが現れて正面に向かって一発撃つ、シリーズの顔とも言えるオープニングのこと。

007慰めの報酬公式サイト

チェンジリング

アンジェリーナ・ジョリーの風格、そしてますます円熟を増すクリント作品
*キャスト&スタッフ

監督:クリント・イーストウッド
制作:ブライアン・グレイザーロン・ハワードロバート・ロレンツ
脚本:J・マイケル・ストラ人スキー
作曲:クリント・イーストウッド
出演:アンジェリーナ・ジョリー(クリスティン・コリンズ)、ジョン・マルコビッチ(ブリーグレイブ牧師)、ジェェフリー・ドノヴァン(J・J・ジョーンズ警部)
2008年アメリカ映画

*ストーリー**************
ロサンゼルス郊外に住む9歳の息子ウォルターと暮らすシングルマザーのクリスティン・コリンズは電話会社につとめながら女手ひとつで彼を育てている。ある日突然息子のウォルターが行方不明になり、ロス警察に捜索を依頼するが手掛かりなく、5ヶ月後に見つかったとの知らせで駆けつけるとその子供は別人だった。が、ロス警察はそれを認めない。その子供も自分がウォルターと名乗り住所も全て何もかもが正確ゆえ、報道陣が見守る中その子を連れ帰り新しい生活が始まる。が、クリスティンには納得がいかない。その子が我が子ではない証拠を歯医者や学校で証言を取り、ロス警察に動いてもらおうと考えるが、ミスを認めたくないロス警察はなんとクリスティンを精神病院に入れてしまう…その後社会派のブリーグレブ牧師の働きで助け出されるが、警察の対応は相変わらず。その内にとんでもないおぞましい事件が発覚し、それがクリスティンの息子の失踪とも繋がってきて事態は大騒ぎになる。どんな時にも子供が生きていると信じ続けるクリスティンの勇気に事態は少しずつ変わっていくが…
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イーストウッドの監督作品の魅力に取り憑かれて以来、ほとんどの作品を観ている私にとってはもはやクリントの作品は冷静に観ることができなくなってきている。クリントが監督をするようになってからしばらくはクリントが監督してクリントが主演してくれなければファンが落ち着かなかったものである。が、ここ数年、それが完全に切り離された形となり、クリントが監督として最盛期を迎え始めているのは世界中が感じていると思う。あの娯楽作品シリーズ「メイク・マイ・デイ」で世界中を沸かせたダーティ・ハリーのあのクリントが、今は社会問題と取り組み、そして市長も経験し、ひたすら人の心の奥底にあるダークな部分を白日の下にさらし、掘り起こす作業を続けていて、クリントという人となりのその豊かさに感激を止められないでいる。クリントの人生そのものがもうすでにアートだと言ってもよいのではないかと感じている。
この「チェンジリング」は実話に基づいた作品であるし、リサーチも非常によくされて映画化されているのでそのリアリティには鳥肌が立つほどの重みがある。子供がさらわれているのに警察は動かず、帰ってきた子供は別人。それを警察の手柄として認めて育てろ、というそういう警察の対応。これが一体何を意味しているのか。それは1920年代のアメリカの警察の腐敗、汚職の実情であり、恥部でもある。そして男尊女卑が当たり前の時代。さらに背後に出てくる恐ろしいおぞましい連続誘拐事件。こういうどろどろと救いようのない組織や状況に、アンジー演じるクリスティンが一人闘いをいどむ。考えようによってはダーティハリーの構造ともよく似ている。敵は大勢にたった一人で闘うわけだから。ただこの作品は非常にシリアスで娯楽性はゼロである。さらにこのクリスティンは最初から強かったわけではない。子供を思う母性、ただひたすらその祈りにも似た想い、それだけが彼女のエネルギーになり、執念と化していくわけだ。その過程もクリントは非常に丁寧に細やかに描いている。しかしながら、今一度この1920年代というところに注目したい。歴史的に女性の発言権がほとんど認められなかった時代に、このクリスティンの行動、人生を考えたらそれはミラクル!としか思えないもので、やはり歴史的に勇気を持った女性の存在、それと同時にどうにもひどかった社会の荒廃、これらをクリントは知らしめたかったのだと思う。場面場面でのロス警察のもみ消しの手順はあまりにひどく、観ていても驚きを隠せなかった。しかし事実だったと思うといやはや、気持ちが淀んでしまう。その中でただ一人、クリスティンの忍耐と知性と勇気、これらが私たちを勇気づけてくれ、希望をもたらす。
クリスティンを演じたアンジェリーナ・ジョリー。この作品で、もはや押しも押されぬハリウッドの実力派女優になったのだと実感した。アクション俳優がシリアスな演技派女優への転身は難しい事も多い。「すべては愛のために」に主演したアンジーにはまだそういう匂いがなかった。彼女の潜在能力を引き出したクリントも凄いけれど、アンジーの役に挑むひたむきさが彼女の演技の磨きに拍車をかけたのかもしれない。彼女の一秒ごとに変わるその細やかな目の演技、口元の演技、それらが繊細で静かなのにあまりに饒舌で素晴らしい。その時代背景を認識した女性としてしとやかにデリケートに演じながらもそういう饒舌さがスクリーンから溢れ出てきてしまうのである。
癖のある役で有名なジョン・マルコビッチの牧師の役にはたいそう驚いたけれど非常に見事だったし、悪役のジョーンズ警部を演じたジェフリー・ドノヴァンも憎らしいくらいにいやなヤツになっていた。
チェンジリング」は時代に残る名作品の一つになったと言えるのではないだろうか。
そして、ジャズが大好きなクリントの音楽、ミファソ…から始まるこれが本当に切なく耳から離れない。場面場面すべてこのメロディー、一色なのだが不思議と飽きさせない魅力がある。
現在のハリウッドで構えず自然体で次々と名作を紡ぎ出しているストーリー・テラー、クリントの円熟したハートに是非触れて欲しい、オススメの作品。

チェンジリング

エレジー

若い世代ばかりではないこれからの恋愛を考える作品
*キャスト&スタッフ

監督:イザベル・コイシェ
制作:トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、アンドレ・ラマル
脚本:ニコラス・メイヤー

出演:ペネロペ・クルス(コンスエラ)、ベン・キングスレー(デヴィッド)、デニス・ホッパー(ジョージ)
2008年アメリカ映画

*ストーリー**************
離婚経験のある初老で独身の大学教授デヴィッドと30歳年下の学生コンスエラとの恋。一人の女性に束縛されずに自由に暮らしてきてテレビ出演などしているゴージャスな教授、デヴィッドが美しく賢く大人な学生コンスエラに少年のようにどんどん惹かれていく…コンスエラもまた年齢差も肉体的な事も気にならぬままデヴィッドを愛するようになる。コンスエラはこの二人の関係に非常に肯定的で、両親に紹介したがるが、デヴィッドは自分の環境を意識しすぎて気後れして勇気を失い、すべて誘いを断るようになる。そんな事が続いてとうとう、コンスエラから別れを告げられる…コンスエラを失ったデヴィッドはショックのあまりに大学での講義にも立てなくなる日々が続き、放心状態の中、ピューリッツァ賞受賞の詩人の親友ジョージの優しさに救われ、徐々に自分を取り戻していく。音信不通だったコンスエラから数年後、突然連絡が入り、再会。彼女の病気が深刻であることを知らされるとデヴィッドは後悔と悲しみとで泣きだして止まらない。ことここに来て初めてデヴィッドはこの恋に自分の年齢などの環境を意識することをやめ、手術を終えたコンスエラの許に駆けつけるが……
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世の中が高齢社会になってきている中で、今後こういう視点にたった作品の映画化は増えるのではないか、と最初から感じていた。イザベル・コイシェ監督の女性ならではの多くを描かないで二人の関係一点に集中したストーリー展開。初老の男と気丈で賢い若い女性の組み合わせは、その心理における駆け引きと、厳しさ、クールさ、が通常の恋愛とはやはりかけ離れてくる。親子ほども年が離れると、男性が圧倒的に遠慮がちになって若い女性に振り回されるようになる。そしていつ、自分が捨てられるかに怯えながらも強い嫉妬心がからみついてくる束縛から逃れられない。一種の麻薬的な作用をもたらすのが老いらくの恋…というストーリーの常識。
しかし、ここで登場するデヴィッドは普通の大学教授ではなくテレビ出演などをするかなり華やかなプレイボーイである。であるからして、その自分のプライドを保とうと必死になって余裕を見せようとしたりしている。が、気がつけばコンスエラの後をつけ、若い男関係の匂いがしないかを嗅ぎ周り、挙げ句の果てには彼女の家族に会うのがつらくて、信じられないようなでっち上げのウソをつき続けて逃げてしまう姑息な、気の弱い男なのである。それを自分で認めているのか認めたくないのか、コンスエラに捨てられても自分から電話すらできない…見ていてこちらが歯がゆくなってくるぐらい、デヴィッドは情けない男性である。浮き名を流していたあのゴージャズな日々はなんだったのだろう…しかし、これが年齢のもたらす心理なのだというのはイザベル・コイシェ監督が痛いほどよくわからせてくれる。
コンスエラは突然現れて、突然消える、かのようにここでは描かれており、デヴィッドから神秘的に見えるように設定されている感があるがとてもデヴィッドを愛していて、対等に人生を歩んでいきたいのは見てとれる。非常に物をよく見ている女性である。わがままを言うでなし、デヴィッドを束縛すらしない。その中で人知れずに彼女なりの葛藤もあり、彼のかたくななまでの、将来に対しての恐怖感を解けないことに傷つき続ける。そしてその感情も押し殺したりしているから、それがデヴィッドからは見えにくい。なので結局成就できないまま…その成就の起爆剤となるのが彼女の乳ガンの発見というのも皮肉だけれど、死を直前にしてしか、二人とも心をオープンにできない。これが人生というものなのかな、と考えさせられてしまう。
作品の前半はもったりと進んでいくのだけれどさすがに監督が描きたい、と心に感じた部分からのストーリー展開は濃密で非常に勢いが出てきて引き込まれる。作品の最後は、観ている人間に判断が委ねられるような終わり方である。貴方は肯定派?否定派?どちらだろうか。
作曲家として驚いたのは、この作品はオリジナルの曲がほとんどなくクラシック音楽その他をカット、ミックスして場面場面に流している。日本語のパンフレットその他にも作曲家のクレジットがない。費用の問題なのか、ポリシーの問題なのか、私個人としては場面場面に色々とクラシック以外のオリジナルな音楽が浮かんだ…映像が非常にウェットで常に淀んでいるのが何とも言えない雰囲気を醸し出している。
ペネロペ・クルスは演技とかよりもその美しさ、さらにそのクールな表情の掴みにくさがこの作品に合っているし、ベン・キングスレーの心の滲ませ方はさすがで、親友役のデニス・ホッパーの演技は秀逸。彼がこの作品の色を非常に際だたせている。

若い男女にはこのストーリー展開は、理解するのに相当時間を要するかもしれない。できればエイジングを感じ始めた大人の男女に観て欲しい作品。


「エレジー」公式サイト

イースタン・プロミス

クローネンバーグとヴィゴ・モーテンセンのコンビネーションの魅力を不動にしたソリッドな作品
*キャスト&スタッフ

監督:デヴィッド・クローネンバーグ
制作:ポール・ウェブスター、ロバート・ラントス
脚本:スティーヴ・ナイト
作曲:ハワード・ショア
出演:ヴィゴ・モーテンセン(ニコライ)、ナオミ・ワッツ(アンナ)、ヴァンサン・カッセル(キリル)、アーミン・ミューラー=スタールセミオン)
2007年イギリス・カナダ合作映画

*ストーリー**************
イギリス、ロンドン。アンナが勤める病院に妊娠中のロシア人少女が運び込まれた。少女は出産ののちに息を引き取ってしまい、アンナは少女が遺した日記を頼りにその身元を割り出そうとする。手がかりをたどるうち、アンナはロシアン・マフィアの運転手ニコライと出会う。やがて、日記を通じて「イースタン・プロミス」=人身売買の秘密が明らかになる。秘密を知った彼女に深入りをしないよう忠告するニコライと、彼のやさしさに図らずも惹かれていくアンナ。ニコライの持つ秘密とは?日記が示す犯罪の行方は?ニコライとアンナの運命はいつしか絡み合っていく…。
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2005年にカナダ人監督デーヴィッド・クローネンバーグが主役にヴィゴ・モーテンセンを起用して制作された「ヒストリー・オブ・バイオレンス」に続いて、さらに素晴らしい仕上がりとなったのがこの「イースタン・プロミス」。当初、何の知識もないままに作品を観て、これが本当にヴィゴ・モーテンセン?と思うほどの彼の役への入り方に驚いた。一度観ただけでは情報が整理できず、なんと3回も映画館に通ってしまった作品。
イースタン・プロミスとは、イギリスにおける東欧組織による人身売買契約、と言う言葉。作品の立ち上がりから観客を集中させるその凄まじさは一種、心を奪われ続ける、というような感じで100分間、集中力が途切れることがなかった。驚いたことに三度目に映画館で観た際に初めて、私はこの作品の音楽が聞こえ始めた。人間の耳はひとつの事に集中すると他の事が全く聞こえなくなる事がある。今回がまさにそうで、それほどにスクリーンに釘付けになり、ストーリーに吸い込まれた事になる。
その要因として、摩訶不思議なリアルさが挙げられるだろう。ロンドンに移住してきたロシアンマフィアが東欧女性の人身売買に絡むストーリーなので本来なら日常から非常に遠く感じてよい作品なのに、とても身近に感じる。それはひとつには、焦点がナオミ・ワッツ演じる普通の助産婦の家庭に当てられている事、それが自然に描かれていることと、さらにもう一つは古い時代の検証にはなるが、ロシアンマフィアの実態をわかりやすく描いていて、彼らが実は、想像以上にファミリーをとても大切にするという、コアの部分において、我々との日常との共通点を描き出している、その二つが作品をとても近くに平易に感じさせている。それなのに描かれている事は全て、恐ろしくおぞましい、非日常的な事件の連続である。この何とも言えない恐怖感と平易な生活感の両方が自然に濃密に絡み合ってきてしまう課程で、全神経が集中させられてしまう。
最初の台本を読んでから主演のニコライを演じるヴィゴ・モーテンセンは当時のロシアン・マフィアのタトゥーの情報収集やら、ロシアなまりの発音の習得、さらには何週間ものロシア滞在。そして評判のよろしからぬ現地の人間との実際の接触、取材。これらを吸収して持ち帰り、クローネンバーグ監督に意見や希望を自由に発言して、マフィアのジュニアのお抱え運転手ニコライの役作りに入っている。それらを参考に脚本がどんどん仕上がるといった具合である。こういった所に前回の作品からの堅い信頼が伺える。
かくして、今まで見た事のないような、クールでミステリアスでハートフルな、ニコライが誕生するのである。さらに出演俳優がそれぞれ素晴らしい。キリルの父親役、表向きはロシアンレストランの経営者、セミオンを演じるアーミン・ミューラー=スタールの演技が特に素晴らしいが、キリル役のヴァンサン・カッセルやアンナ役のナオミ・ワッツ。アンナの母親役のシニード・キューザック…と、脇を固める俳優陣の演技が効いており、そのために作品はさらにきめ細かく濃厚な仕上がりになっている。
ニコライは言葉少なく、動きも非常に静かで常に自分を控えめにしているが、自分が仕えるキリルに頼まれての死体処理、遺棄などは非常にスピーディで無駄が無く、感情も差し挟まない…ただの運転手ではない何かをこちらに感じさせる。(ヴィゴのロシア訛りの英語がまた味がある)
これは決してマフィアそのものの残忍なストーリーのみを描いた作品ではない。もちろん映像的には殺人、暴力の描写はあるが、それと並行して家族愛、移住者の故郷への哀愁、結束。そういったものを同時に大きくクローズアップしている。
その表現を見ていると、マフィアほどすべてが究極にあるものはない、という風に見えてくる。つまり暴力的にも究極、組織力も究極、そして愛情も究極に濃い。そして統率力のある有力な親の元に生まれた愚かな息子に親はいつの時代も苦労する…というように。部分部分で見ればその日常においては我々のそれと何ら変わりがない…生きている社会と掟が根本的に違っている事を除けば…
その究極な世界での繊細な表現も見る者を引きつけずにはおかない。


「イースタン・プロミス」公式サイト

2008年11月29日より早稲田松竹(高田馬場)にて「ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス」と「イースタン・プロミス」二本立て上映

容疑者Xの献身

東野圭吾の世界の見事な表現
*キャスト&スタッフ

監督:四谷 弘
制作:亀山千広
脚本:福田靖
作曲:福山雅治
出演:福山雅治(湯川学)堤真一(石神哲哉)、松雪泰子(花岡靖子)、柴咲コウ(内海薫)

2008年日本映画(東宝

*ストーリー**************
帝都大理工学部物理学科の準教授・変人ガリレオこと湯川学(福山)は貝塚北署の掲示、内海薫(柴咲)に捜査協力を依頼され、科学的に実証している。ある日、大田区の大森スポーツ広場でしたいが発見される。被害者は全裸で指紋が全て焼かれ顔も鈍器で潰されていた。身元が判明してみると富樫慎二。富樫の経歴から元妻の花岡靖子に疑いがかかる。靖子は錦糸町でホステスをしていたが、夫と分かれてやっと資金を元手に現在は日本橋浜町弁当屋を経営している。靖子と娘の美里は江東区のアパートでの二人暮らし。警察が尋ねると二人にはアリバイがある。隣に住んでいた風采の上がらない高校教師、石神が通りかかり、彼が湯川学と同窓であったことがわかり事態は大きく解決に動いていくが…
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最近は邦画が元気がよい、と業界で言われている。ハリウッド映画のように巨額な費用をかけなくても質の良い作品が目白押しという、この邦画の中でもこの「容疑者Xの献身」は原作が光っているから映画作品自体が隙なく仕上がっている。東野圭吾の作品には「白夜光」など大ヒットテレビドラマ作品も多いが、一貫したあるテーマがあり、これも不条理なものを描いていると言えよう。事態が動き出すとどうにも止めることができない、それの始まりやきっかけはほんのふとした事のようには描かれているが、その実、そのきっかけはいつ出てきてもおかしくない人間の力では変えることのできないどうしようもない背景によるもの、というその呪いたくもなるようなディスティニー(運命)というようなものをいつも鮮やかに描き出してくる。特に今、油がのりきっている感のある堤真一の演技が素晴らしい。福山演ずる湯川学と同様に天才と言われながら、母親の寝たきり看護という事情でついに数学者になる道をあきらめ目立たない高校の教師として暮らさざるを得ない石神のその心を良く演じきっている。そんな陽の当たらない石神が安らぎと生きる勇気を感じた親子、その弁当屋の経営者、花岡靖子と美里を見るときの石神の視線がどうしようもないほど痛々しい…そんな石神を演じた堤真一は撮影中の姿勢悪い習慣のために体調を壊したとか。やはり徹底した俳優である。そして痛々しいと言えば花岡靖子と美里の親子も痛々しい。一生懸命生きているのに人生をやり直すことが困難な方に向かってしまう運命…ここにやはり東野圭吾のテーマがある。
作品のテンポ感が非常に良くて、原作を知らなくてもぐいぐいと引き込まれる脚本。キャスティング。見応えのある作品。是非オススメ♪

容疑者Xの献身